【東日本大震災】和田政宗議員が前川喜平氏の責任を問う[大川小事故検証委員会を主導]連れ出し(出会い)バーにも怒り 2017/06/08 参議院内閣委員会

2017/06/08 参議院内閣委員会で和田政宗議員は、小規模保育園で子供の事故を防ぐために、どう取り組むかについて質問を行いました。

その中で、過去の大きな児童事故の例として、東日本大震災で起きた大川小学校の事故に触れました。

その中で和田議員は、後に作成された事故検証委員会の最終報告書に、前川喜平前文部科学省事務次官が関わっていたことを指摘しました。

震災当時、大川小学校では児童74名、教職員10名が死亡、もしくは行方不明になるという、非常に痛ましい結果を迎えてしまいました。

なぜこれほど多くの児童が被災してしまったのか? その原因を究明し、再発を防ぐために置かれたのが「大川小学校事故検証委員会」です。

この委員会は第三者により構成されました。遺族の多くが望んだにもかかわらず、遺族から委員は選ばれていません。文部科学省が示した理由は「公平中立かつ客観的な検証を行うため」でした。委員会は文科省と宮城県教育委員会の指導・監視の元に置かれています。

この委員会を主導したのは、当時、文部科学省初等中等教育局長の前川喜平氏であったことを、和田議員は指摘します。


事故検証委員会は第1回(平成25[2013]年2月7日)から第9回(平成26[2014]年1月19日)まで開かれて、最終的に「事故検証報告書」が作成されています。

地震が発生したのは平成23[2011]年3月11日、14時46分。津波が大川小に到達したのは15時37分。その間51分。
この51分の間、大川小では何が起こっていたのか、そこで誰が何を元に判断し、どのような行動がなされていたのか、委員会が設置され、報告書が作成される意味は、その51分間を解き明かすためにあったはずです。

ところがこの報告書では、最も重要であるはずの51分間について、詳しい検証、報告が行われていないのです。


第5回検証委員会(平成25[2013]年10月20日)で「事実情報に関するとりまとめ」が作成され、第7回検証委員会(平成25[2013]年11月30日)では、その「とりまとめ」について一般からの意見が寄せられました。
そこには厳しい意見が目立ちます。以下石巻市の「大川小学校事故検証委員会について」からの引用です。

義務教育の小学校において校内及び敷地内における管理責任が学校側にある事は歴然で有るにも関わらずその記載がどこにも見当たらない

既に約2年半もの時聞が経過してるにもかかわらずくだらない検証等に時間と予算を使い何の進展もしていない

確信に迫る事実を伏せたいとしかおもえない報告

未だにご遺族の方々に公式な謝罪が無い

ご意見1より

情報量があれだけ豊富な「とりまとめ」であるにも関わらず、どういった情報を重視し、あるいは判断に採用しなかったのかの基準についての基準の明記がありません。基準を明確にする(あるいは、明確な基準があるのであればまずそれをとりまとめ方針として最初に明記する)ことを提案いたします。

ご意見52より

大川小学校の悲劇を論ずる上で中心となる論点は、地震発生の14:46から津波が到達したと考えられる15:37までの聞の「50分の間に何が起こったのか」である。

しかし、追加資料を含めて92ページに及ぶ「とりまとめ」の中で、この中心課題に触れているのはp61~64のわずか4ページのみである。この部分こそが立場の違いによって意見の相違が生ずる核心部分であり、そこに注力してこそ「第三者による検証」の意義があるはずであるが、周辺背景についての記述ばかりが多く、本来検証委に期待されているはずの中心課題に対して割くべき力が少なすぎると指摘せざるを得ない。

以下では、私が遺族から伺ったお話をもとに、私が推測している「50分の間に何が起こったか」というストーリーを記述する。当然公平性については検証の余地があるが、p62「『もし来てもたいしたことはないだろう』といった危機感のない様子だったようである。ほとんどの会話は、ゲームやマンガのこと、次週の時間割のことなど、児童が日常的に行う会話だったと考えられる」このような、根拠も示さない推測をここに記述することが許されるのであれば、私が推測しているストーリーを記述することにも何ら問題はあるまい。

検証が必要であれば、遺族や関係者に再度ヒアリングを行うことを勧める。
根拠となる証言が得られるはずである。


14:46の地震発生後、教職員たちは児童を校庭に避難させたが、そのあとどうするかは議論があった。多くの児童は不安に駆られていた。その中に「山さ逃げよう」と発言する児童もいた。

児童を引き取りにきた保護者の中には、7~8mの津波が接近していることをラジオで聞いて知っていた方がおり、一刻も早く裏山に登って避難するよう必死に訴えてからその場を去った。

教職員のほとんども、避難の必要性を認識していた。南三陸町志津川出身の
教職員もおり、津波に対して甘い認識など持っていなかった。多くの教職員が裏山に避難するよう主張した。裏山には学校活動の一環として、低学年含めて日常的に立ち入りがあり、裏山に登ることが危険だとし寸認識はなかった。

裏山に登ることに反対していたのは、○○○○であった。その○○○○は「校庭が安全だからここにとどまれ」と主張し、雪の降る寒さの中、暖を取るための焚き火をやろうと、ドラム缶2つを校庭に持ち出してきた。
焚き火をやろうとするということは、完全にそこに根を下ろすつもりだったということである。

校長は市中心部に出張中であり、その時点での現場責任者は教頭であった。
しかし大川小学校において校長と教頭は「外来者」であり、○○○○に対して指導力を発揮できなかった。教頭は○○○○に対して反論することができず、津波の様子を見るために自ら川の様子を見に大川小から離れるなど、現場の統制というミッションから外れた行動を取っていた。

(「とりまとめ」には「なぜ15:25以後、三角地帯への移動を開始したか」という、当然検証すべき事項に関する記述が何もないが、)児童と教職員が校庭から移動を開始した理由は、すぐそばまで津波が迫り、誰の目にも危険が明らかになったからだった。それはもう統率された避難ではなく、自らの命を守るための逃走だった。

教職員のうちの一人はいち早く裏山に逃げ、校内にいた教職員で唯一の生き残りとなった。児童では同様に裏山に逃げた子ども、また幸運にも裏山のほうに押し流された子どもが九死に一生を得た。

三角地帯の方向に逃げた者で生きのびたのは、路地を抜けなければ三角地帯
に出られないと知っている釜谷地区の児童だけだった。校庭からまっすぐに三角地帯をめざした者は袋小路に追い詰められ、為す術なく津波に飲まれた。


ご意見62より

「とりまとめ」は遺族の意見、要望を入れて修正され、最終的に「事故検証報告書」として平成26[2014]年3月1日に提出されました。しかし多くの遺族にとってその内容は不十分で、真実を知りたいと願った遺族は平成26[2014]年3月10日、宮城県と石巻市を相手に23億円の損害賠償請求訴訟を起こしたのです。平成28[2016]年10月26日、仙台地裁は、学校側の過失を一部認め、約14億3000万円の支払いを石巻市と宮城県に命じましたが、市と県は控訴し、現在仙台高等裁判所で控訴審が継続中です。


遺族を訴訟に踏み切らせた「事故検証報告書」。それを作成した「大川小事故検証委員会」。委員会を指導・監視した文科省・前川喜平氏。和田議員によると、前川氏に怒りを隠さない遺族もいるということです。

和田議員は「報告書」が検証不足なものになったことは、前川喜平氏、ひいては文部科学省に大きな責任がある、と指摘します。

和田議員が言うように前川氏は優れた役人でした。優れた役人とはすなわち組織を守り、組織の利益を最優先する人間、ということでしょう。
検証委員会が事件の核心に迫らないように「指導・監視」し、遺族の怒りを買ったとしても、行政側に過失がないという報告書をまとめさせたことは、前川氏が「優れた」役人であることを示しています。

こういった事例からも、前川氏は一部マスコミや野党が言うように貧困者や弱者に寄り添う正義の味方ではなく、あくまでも「優れた役人」に過ぎないことは明らかです。
出会いバーを引き合いに出すまでもなく。